2018年度の活動報告

 

2018年度の印西地域史講座は、従来にも増して充実していました。

昨年4月に行われた総会記念講演は、国際経済学者で立命館大学名誉教授の唐沢敬さんを招き、「近代史にみる現代世界の諸問題とグローバル化の挫折」と題して講演をいただきました。

世界130ヶ国を歩き回った目で、現在の混沌とした世界情勢を紐解く話で、講師も熱が入り、当初予定を上回る2時間半に及ぶものでした。

50年ほど前から始まった世界経済のグローバル化により先進国と開発途上国の間に格差が生まれ、また先進国でも国民の間で貧富の格差がかつてなかったほど際立ち始めています。これは「グローバル化の挫折」、破たんが始まっている証拠とみられます。現代世界史は、まさに「今後世界はどう変わるのか」が問われている時代だというお話でした。

Ⅰ)第8回印西地域史講座

8回目となる「印西地域史講座」は6名の講師を招いて行われました。

5月「龍角寺浅間山古墳と岩屋古墳、その時代」は、講師に風土記の丘資料館・主任上席研究員の白井久美子さんをお招きしました。白石さんは龍角寺浅間山古墳の発掘調査に長年携わって来た第一人者です。

印旛沼東岸に位置する龍角寺古墳群は現在までに114基の古墳の存在が確認されていますが、これらは6世紀後半から7世紀前半頃に造営された最後の前方後円墳です。

浅間山古墳からは、埋葬された豪族の豪華な副葬品が出土したことや、そのわずか後につくられた日本最大の方墳である岩屋古墳、関東最初の寺院である龍角寺の建立へと繋がる7世紀の姿を白井先生は生き生きと語ってくれました。

古代史研究者はとかく専門研究者同士でしか理解できないような細部の説明に終わりがちであるため、古代史の講演は避けがちでした。しかし、白石さんは当時の畿内、九州、関東、そして同じ印旛沼東岸の公津原古墳群などにも言及しながら、時代的、地域的な背景に基づいてわかりやすく説明しました。

浅間山古墳についての詳細は、白井 久美子「最後の前方後円墳 龍角寺浅間山古墳」が出版されています。

6月「道作古墳の発掘調査と印西市域の古墳」は、印旛郡市文化財センターの研究員であり(印西市教育委員会所属の職員でもある)根本岳史さんでした。

前月の白井久美子先生の浅間山古墳と岩屋古墳の講演に引き続き、印西地域の古墳時代の話です。印西市域の古墳は確認されているもので384基、集落数189カ所があるそうですが、それらの分布、動態や規模などについて古墳時代の時代(前期、中期、後期、終末期)の移り変わりによって古墳も変化しているそうです。

とくに市域で最大規模の道作古墳群については、最近の探査と調査の様子なども紹介し、詳細に説明されました。今後の課題として、前期から中期にかけての動向の解明、道作古墳の位置づけ、周辺地域との関連について解明して行きたいと語っていました。これからの調査および研究結果も大いに期待したいと思います。

 

7月「布佐村一件訴訟顛末~百姓惣兵衛の闘い」我孫子市史研究センターで主に古文書講座を担当する副会長の清水千賀子さんでした。

木下河岸と布佐河岸は利根川舟運、特に鮮魚郵送を巡って対立し競争しあってきた近隣の河岸です。布佐村は奈良・平安時代から開かれた地域です。

「布佐村一件」が発生までに至る布佐村の概況から話しが始まり、村の構成と仕組みから、訴訟のきっかけから争点と結果までを説明されました。

利根川大洪水から始まる水防のために築堤された堤防に関わるもので、それらにまつわる当時の状況を図面などに基づき詳細にお話しいただき、当時の布佐村の様子がよくわかりました。

また、東日本大地震で液状化の被害受けた一帯が、明治3年に利根川堤防が決壊してできた「切れ所沼」を埋め立てた住宅地で、同一箇所だったということがよくわかりました。

 

8月「佐原に暮らしてきた地域人としての伊能忠敬」は、数十年にわたり伊能忠敬を研究してきた印西市史編纂委員であり元佐原高校教師の酒井右二さんでした。

伊能忠敬は当時の技術で詳細な日本地図を完成させたことであまりにも有名ですが、50歳までは佐原の伊能家の家長として農業、商業の経営者で、相当な資産家でした。

先生は、香取市(旧佐原市)に住んでおり若い時から研究を重ねてきた第一人者だけに、当時の忠敬の生き方を地域および時代背景を踏まえて詳細に説明されました。自由な経済活動、道徳的な経済意識、貧民救済などの地域との共生、社会活動、揺るぎない正当性の自信と学問の力。さらに厳格な人、かなりの実務家だったのでしょう。

後半生に自分の自己実現を成し遂げた熟年の見本であり、人生を二度生きた「大いなる凡人」というのがお話を聞いた感想です。人生100年時代を生きる私たちにとって学ぶこと大有りでした。

酒井先生は『千葉県史』通史編、資料編にも伊能忠敬などについて共同執筆されています。

 

10月「印西の文化遺産、長屋門を考える」は、元東京電機大学教授=建築史の滋賀秀実さんでした。

先生は以前より印西市の長屋門については研究が深く、『印西の歴史』第二号 1999年3月発行に「印西市の長屋門」を著しておられます。この論文は印西地域史研究会のホームページで見る事が出来ます。

今回の講演でも、図面、写真、博覧図などもまじえて、長屋門の立地・平面・構造から市域の長屋門の分布・年代などを詳細に説明されました。また、印西地域の文化財、歴史的建造物の保存・再生についても考えを述べられていました。
 ご高齢にもかかわらず、長身で姿勢を崩すことなく説明されている姿に感銘を受けました。本講演で旧来から屋敷のステータスシンボルである「長屋門」を改めて認識したので、これからニュータウンを離れて街歩きするときは、風景として建造物を見るときの目が変わってきます。
 なお、講演のなかでいくつかの博覧図を見せていただきましたが、ネット上で『大日本博覧図 千葉県』などと検索していただければ、長屋門に限らず、明治半ばの精密かつ俯瞰的に描かれた名勝旧跡・寺社、豪農豪商の邸宅・庭園、会社・工場、学校の校舎などを見ることができます。

なお、先生は『館林市史』の「館林の町並みと建造物」のなかに多くを執筆されています。

1月「江戸時代の名主の仕事と村の一年~村の歴史と家の歴史~」       は、元学習院大学講師で国税庁税務大学校租税史料室研究員の舟橋明宏さんでした。

「千葉県史料研究財団」『千葉県史』の編さん事業の一環として平成11(1999)年7月から平成15(2003)年12月まで4年5カ月にわたり本埜村(現印西市)海老原文彦家調査を実施しました。同家の文書・史料は16,907点に及ぶ膨大なものでした。この調査は故・大谷貞夫国学院大学教授ら77名が参加して行われました。

竜腹寺村の海老原家は、近世初期に竜腹寺村を開発した草分けの一人ですが、特に近世(江戸時代)の後期に際立って急成長を遂げた豪農であり、近代(明治・大正期)ではさらに発展を遂げ、多額納税者として印旛郡を代表する地主となりました。

江戸時代の末期の天保期には、淀藩の下総国にある領有地内の一村を超えた争論など広域の民事訴訟を扱う郡中取締役名主という役職を勤めたほか、淀藩が財政ひっ迫した折には、御用金・調達金役として領外の佐倉藩領土屋村の石原文四郎、田安藩領飯岡村の大河平兵衛などの豪商・豪農と淀藩勘定方役人を結び付けるために奔走し、淀藩に大きく貢献しました。

海老原善兵衛長彦は経営力に優れていたので海老原家に婿入りして先代より家督を受け継いで以降の約33年間の天保15(1844)年の段階で、田畑を43石余から394石余に9倍に増やしました。また、商業面でも先代から受け継いだ油屋に加え質屋業や木下河岸を中心に廻船運送にも拡大し、家政の繁栄に大きく寄与しました。

海老原善兵衛長彦の業績は家政を盛り立てただけでなく、藩の地方役人として勤めた郡中取締名主をはじめとした職務記録や、天保飢饉、安政地震、ハレーすい星などの社会的事件の記録をこまめに残すなど多くの著作をあらわしたことです。これらの記録からは、江戸時代の支配者を支えた農村社会と農村文化、農民の知識を改めて見直すことができる貴重な史料でもあります。

この報告書のアンカー・マンとして翻刻・読み下し・解説を記述したのが舟橋明宏さんです。

今回の講座は、タイトルとも少し異なって、「海老原家のルーツは、家系図などに書かれている結城氏に繋がるか、それとも千葉氏と繋がるのか」という点が中心に語られました。前段のような海老原家の歩んできた道程や業績を知らない人たちには分かり難かったかも。主催者と講師の打ち合わせ不足と反省しています。

Ⅱ)調査・研究活動の報告会

12月「千年前に在った印西地域の<郷(村)>を考える」報告者は会員の松本隆志さん。

研究報告は、古代の「下総国葛飾郡大嶋郷戸籍」を例にとり、古代の印旛郡にも戸籍があったと考えること、②『倭名類聚抄』という書物には奈良・平安期の村の名前が記録されていること、③『倭名類聚抄』などを手掛かりに奈良時代の人口を科学的に研究したのは、歴史学者ではなく数学者の澤田吾一であったこと、➃『倭名類聚抄』の記録から古代の下総の「郷」が江戸時代の何処の村であるのかを研究したのは『下総旧事考』を著した清宮秀堅であったことなどについて報告しました。

そして、清宮は印旛郡11郷のうち印西地域の郷は吉高・船穂()・言美・三宅・日理の5つあったと想定している。